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この人に聞きたい:第1回(週刊冷食タイムス:05/03/22号)

諦めずに挑戦また挑戦、30年間”無添加”貫く。

岩手阿部製粉 取締役社長
阿部淳也氏

冷凍和菓子の草分けである岩手阿部製粉が冷食を本格化したのは約20年前だが、阿部社長が手掛けたのはさらに遡ること十数年前の1970年前半という。解凍して販売する商品の日付け表示規定もあいまいな時代に、悪戦苦闘して自らの道を開拓した“粉”にかける人生はまさに「禍福は糾える縄のごとし」そのもの。

「話は長くなるが」という阿部社長に冷食を手掛けるまでの曲折をあえて語ってもらった

――冷凍和菓子は恐らく日本初でしたね。

阿部:最初は全然ダメでね。そもそも私は製粉屋でも菓子屋でもなかった。大学を卒業して1年間はノイローゼで何もせず、親が教師になれというので田舎の中学の英語教師をしてみたが、悪ガキが言うことをきかないので殴っていたら、新しい校長が赴任してきてクビになった。仕事をしないといかんので、母が米粉を挽いて団子を作っているのを見て粉屋になった。

――大学でまた米の製粉を勉強し直した

阿部:大学に入り直し澱粉化学を2年間勉強して埼玉県の草加に粉を持っていったが、客は「お前の米粉は草加煎餅に向かん」と買ってくれない。何が悪いのかを知るために自分で煎餅会社を設立したが、1年間は全然ダメ。

――固い草加煎餅ができなかった

阿部:しょうがないので「柔らかびっくり大丸煎餅」と言う名前で売ったらよく売れる。ところが割れやすくて返品が多い。そこで薄い塩とサラダ風味のタイプにして「ツーリストスナック」の名で売った。

――鉄道関係で売ったんですよね。

阿部:東北と北海道では売れたが、当時の営業は全然働かず、自分で客先を歩いた。しかし北海道の15カ所を回るだけで半月かかる。工場を留守にしていると今度は生産がメタメタになる。やっぱり人が多い所で売らないと話にならんということで、東京の菓子問屋にもちかけたが、問屋は異物が入っていると言って扱ってくれない。

――それが転機に?

阿部:話の流れから「もしアメリカで売れたら扱うか」と言ったら、買ってやると言うので、早速ハワイに行った。ハワイでは「ここは金がない老人が多い。ロスかサンフランシスコで売れ」という。アメリカ本土では、味は評判がよかったが、「酸化しない油で作れ」という。

――それでもあきらめなかった。

阿部:味の素がちょうど酸化しにくい油を開発中だった。そこでうちがテストの製品を作る条件で1年かけて取り組み、油が完成。その後何回か再挑戦し、「チーズフレーバードライスチップス」を輸出開始した。それからはまさしく順風満帆。シカゴ、ロス、バンクーバーと販路を広げ、とうとうニューヨークで当時最大のチェーン、セーフウェーに売り込んだ。

――米国でメジャー進出ですね。

阿部:セーフウェー側は月産能力を聞いてきた。なめられてはいけないと、「20フィートコンテナで10台」と言ってしまったが、もちろんそんなにない。せいぜい2台分が実情だった。

――どうやって乗り切った?

阿部:帰国して5つの工場に頼み込んだ。異物が入らないように、それぞれ海の砂利を篩う機械を導入したのだが、最初はチーズにダニが発生して当時1コンテナ250万円の製品を10台廃棄した。商品は売れるが、次からは港に直接運べなくなってしまった。そこで、ボルチモアから陸送したりしてなんとか届けた。嫌な体験だったが、これが異物と品質の大切さを分からせてくれた。

<本業の製粉、食中毒の濡れ衣で、経営危機>

阿部:もともと良い粉を作ろうと言うことで始めた煎餅製造だったので、粉も研究し、水冷で冷やしながら挽くといい粉ができることをつきとめた。その粉を再び草加に持っていったら好評。菓子屋からも「いい柏餅ができる」と喜ばれ、作っても作っても売れていた。ところが好事魔多しで、うちの粉が売れている間に他の粉屋が廃業に追いやられていることに気がつかなかった。あるとき納入先の食中毒の原因が当社の粉だと濡れ衣を着せられた。結果も出てないのに新聞でも「共通の原因は岩手阿部製粉」と書かれ、役所からも呼ばれて、全て当社が悪いと書かれた。書類に印を押せという。倒産、廃業、損害倍賞による借金が脳裏に浮かんだ。はめられたと思った。

――また一転危機に。

阿部:悩んでいたら、大学の先生の取り持つ縁で妹が先生の甥の医者と結婚することになった。関西の大学の医学部教授で、細菌検査を頼んだら当時としては早い1カ月で結果を出してくれた。7カ所の全てを検査してシロ。私が勝った。その1カ月は不安で酒を飲んでたよ。

――どうなることかと。

阿部:ところが、米は政府との契約で供給している。こんな事件にまきこまれたので、一定量をキャンセルしたいと申し出たら、「今年の実績がないと来年から元の量は与えられない」とお役所仕事の返答だ。低温倉庫を借りたが、不良在庫の山に苦しんだものだ。他社がキャンセルする年があっても当社だけはその後もずっとしなかった。だから一番いい品質の米をずっと使うことが出来た。

――中々冷食の話が出ない。

阿部:まぁ、そういうことがあったので、もう大手を相手の商売はこりごりと思い、製品も純粋に生醤油と米と水だけの団子を作って、自分の店で売ってみた。普通の団子は砂糖がたっぷり入っていて固くならないが、うちの団子はすぐに固くなる。だから今日作って、今日売って、今日食べてもらわないといけない。それが売れたので北上京チェーンを作った。今日と京をかけた命名。これで完全無添加食品の需要があると確信した。1年後に26店で団子を作るようになった。

――それが冷食事業に?

阿部:チェーン展開を北日本だけでなく、西にも広げようとしたが、そう簡単にはいかなかった。それなら遠いところから攻めてみようということで、香港で売った。最初は売れなかったが、工夫をして1日7,000個ほど売れるようになった。しかし工場を作るには資金が足りない。ならば冷凍して持っていけばいいということで、冷凍の団子を作ったのが1971年頃だった。幾度も改善してやっと防腐剤を使わなくても満足のいく冷凍和菓子ができた。

――国内がだめなら外国からという手法は煎餅と似ている。

阿部:その後、日本でも冷凍品で売ろうとしたのだが、最初は全然ダメだった。

――なぜ?

阿部:厚生省が製造の日付を解凍した日ではなく、冷凍前にしろという。いくら食べておいしくても、半年前の日付じゃ気分的に体調をこわす人がでちゃうと言ったら「そんなことは知らん」と相手にしてくれない。

――冷チルの解凍日付や賞味期限表示になったのも数年前。当時では…。

阿部:そのとき、シカゴの新聞が当社の冷凍和菓子の記事を掲載し、「自然解凍したが、すばらしい出来だ」と評してくれた。掲載文をもってまた厚生省にかけあいにいった。たまたま通りがかった課長に食べてもらうことに成功し、「うまいじゃないか」といわせしめた。こちらの提案で解凍日と製造日を併記すればいいということで合意をもらい、売ることが出来た。後日、浜松の保健所から「誰がこんなことをしていいと言った」とクレームがきたが、その課長に問い合わせてもらい許しを得たなんてこともあった。日本は官僚社会だとつくづく思ったよ。そんなことがあったので、私は当時から早く賞味期限表示制度を作れと言っていた。

――当時の製品アイテムは?

阿部:団子、大福等の餅菓子。今は冷凍品が150アイテムある。人がやらないことは自分で切り拓かないとダメ。しかし、ようやく売れるようになったとほっとした頃に皆がマネする。

――今、手掛けているのは?

阿部:雑穀を原料にした麺を開発している。雑穀製品は20年前から手掛けていて、不愉快な事があって4〜5年で中断していたのだが、地域生産者からの要望もあり、一方で姪の弟がこれからはアンチアレルギー食品の時代が来るという意見もあって、一昨年から再開した。小麦粉もそばも添加物も使わずに麺を作るのはけっこう難しいが、いまさら30年の節を曲げてまで添加物は使いたくない。試食では評判がいい。常温では品質保持が難しいので、冷凍で販売するつもりだ。

――冷凍和菓子の将来は?

阿部:冷凍の和菓子はあまり将来性を感じない。正直言って、何もしないでいると売上げは落ちる。どこでも作るようになり、値下げ競争が激しいからね。うちの商品が高いのは世界一高い米を使っているから。今になって国産原料ブームで、当社もむしろ粉のほうが売れているよ。国産にしても、餅菓子は酒糠(酒造用米を精米した残りの部分)を使えば安くはできる。大福なんか時間当り7,200個を1.5人でできるんだから、材料次第で安くなる。だが、いまさらそんなことはしたくない。だいたい、安全安心なんて言葉も好きじゃあない。いまさらね。本当に安全安心なものを作るのは大変なことで、ずいぶん苦い経験もしてきた。かるはずみに言ってはいけないと思うよ。

 

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